【黒住宗忠の言葉】 天地(あめつち)の心のありか尋ぬれは・・・
天地(あめつち)の心のありか尋ぬれは 己(おの)か心の内にこそ有りける
黒住宗忠
安永9年11月26日(1780年12月21日) - 嘉永3年2月25日(1850年4月7日))
現代の岡山県に位置した備前国御野郡中野村の今村宮に仕える禰宜の家に三男として生まれる。 幼名を権吉(ごんきち)といい、備前藩から孝行息子として表彰されるほどの親孝行であったといい、「黒住の孝行息子」と周囲からあだ名されたという。
文化11年(1814年)11月11日、最早最期と覚悟した宗忠は冬至の朝の太陽を浴びる中で天照太神と同魂同体となるという「天命直授」と言われる霊的体験により天命を悟るとともに、病気も消えうせ、宗教的活動を開始したと言われる。皇室や公家の中に宗忠に帰依する者が多く、宗忠の死後、神道の権威とされた吉田家より「宗忠霊神」、安政3年(1856年)3月8日に「宗忠大明神」の神号が授けられる。
【草間彌生の言葉】 私のやることなすことは、何故か知らぬ間に誤解やスキャンダルの只中に立たされ・・・
私のやることなすことは、何故か知らぬ間に誤解やスキャンダルの只中に立たされ、大真面目になればなるほど、外部との事態は悪くなっていきました。
私の芸術の社会的結果は、前衛であるという姿勢においてはいつも惨めだったのです。
体勢と規制の壁はいつも厚く、マスコミの暴力にもあいました。
人類の精神的な退化が、われわれの前途の太陽をいつもさえぎろうとするのです。
それでも私はひたむきに前衛の姿勢をもって、新しい未来の歴史を作っていきたいと願ってきました。
そうするうちに、私の前衛芸術は、世界の美術の歴史のなかでしだいに新しい領域を開拓してきました。
私はそのことに誇りを感じています。
草間彌生
1929年長野県生まれ。前衛芸術家、小説家。1957年渡米。画面全体に編目を描いたモノクローム絵画やソフト・スカルプチュアで高い評価を得る。1960年代後半には多数のハプニングを行う。1973年帰国。美術作品の製作を続けながら、小説、詩集も発表。2011年~2012年には大規模な回顧展がテート・モダン、ホイットニー美術館などで開催された。国内では、「永遠の永遠の永遠」展が静岡、大分、高知などを巡回する。
【福沢諭吉の言葉】 人の天然生ま附(つき)は、繋がれず縛られず・・・
人の天然生れ附(つき)は、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なるものなれども、唯自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。
即ち其分限とは、天の道理に基き人の情に従い、他人の妨を為さずして我一身の自由を達することなり。
福沢諭吉
天保5年12月12日(1835年1月10日)- 明治34年(1901年)2月3日) 日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を元に明治六大教育家として列される。昭和59年(1984年)から日本銀行券一万円紙幣表面の肖像に採用されている。
【王貞治の言葉】 人間はね、そんなに賢くないから、失敗しない限り学べないんです・・・
人間はね、そんなに賢くないから、失敗しない限り学べないんです。
失敗することで「これをやったらだめ」「こうやればうまくいく」ということがわかってきて、自分なりの答えの“引き出し”が増えてきます。
すると、まったく初めての状況にぶち当たっても、それまでの経験値から、それなりに対応できるようになるんです。
そういう答えの“引き出し”が少ないとしたら、それは失敗や挫折が足りないんです。
王貞治
1940年5月20日生まれ。日本生まれ、中華民国籍の元プロ野球選手・監督(読売ジャイアンツ監督(第12代)、福岡ソフトバンクホークス監督(第18代)、WBC第1回大会(2006)日本代表監督を務めた。福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役会長。日本プロ野球名球会顧問。 レギュラーシーズン通算本塁打868本を記録し、巨人のV9に貢献。1977年、初めて国民栄誉賞を受賞した人物であり、2010年には文化功労者として顕彰された。