【二葉亭四迷の言葉】 老兄は大和魂を解して純粋とように仰せられしように候が・・・
老兄は大和魂を解して純粋とように仰せられしように候が、これは積極の方面にて、その裏の消極の方面を見れば、日本人には無気力という欠点がありはせぬかと存じ候。
純粋ゆえに剛情のねばり気がなく、一寸突いていかなければ直ぐ手を引っ込めてしまい、あくまで極端までやってみる魂気なし。
善事悪事もその通り、いずれも一寸ちょっかいを出して少しずつやってみれど、善の底、悪の底までやりつける気力足らず。
何事も深入りせぬ質ゆえ、したがって程のよい人間ができ、粋ができ、通ができ、窃盗ができ、収賄者ができるのにはあらぬかと疑われ申候。
二葉亭四迷
1864年4月4日(元治元年2月28日) - 1909年(明治42年)5月10日
小説家、翻訳家。本名、長谷川辰之助(はせがわ たつのすけ)。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞(め)え」と罵ったことによる。別の号に冷々亭主人、杏雨。江戸市ヶ谷生れ。彼の自筆履歴書によると、1883年2月1日から1885年12月25日まで、当時の専修学校(現在の専修大学)で学び、卒業した。また、東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科入学後、同科が改組されてできた東京商業学校(現一橋大学)第三部露語科を1886年1月に中退。 坪内逍遥と交流を結び、その勧めで評論『小説総論』を発表。1887年~1891年の間に出された写実主義小説『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の開祖となった。また、ロシア文学の翻訳も多くてがけ、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」は特に有名。自然主義作家へ大きな影響を与えた。 後に『其面影』『平凡』を書いたが、1909年、ロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で客死した。