【森山大道の言葉】 シャッターを押しちゃった瞬間にフィルムに焼き付いたものは・・・
シャッターを押しちゃった瞬間にフィルムに焼き付いたものは、その瞬間からどんどん本人の意思を離れていく。
もちろんシャッターを押すモメントは、その人間の、僕の場合は当然僕の、一瞬のうちに脳裏をよぎる記憶だったり、美学だったり、思考だったり、欲望だったりが反映されてるんだけど。
でも、撮られたほうはそんなことは知ったこっちゃないわけで。
その知ったこっちゃないものが残るんだよ。
それで、何年、何十年か後に、『どうだ?』と呼びかけてくるわけ、向こうがね。
それが写真の面白さ、写真の圧倒的な強みだよね。
森山大道
1938年、大阪生まれ。1964年にカメラマンとして独立。1968年、ブレ・ボケ・アレと称される前衛的写真の先陣を切り、『にっぽん劇場写真帖』を発表。以降、写真という概念・制度の最大限までの拡張、解体を試みる。世界的評価も高く、1999年のサンフランシスコ近代美術館を皮切りに2年にわたって全米を巡回した回顧展や、2003年、パリのカルティエ現代美術財団での個展など、海外でも大規模な展覧会を多数開催。
【桜井章一の言葉】 安易に「悟り」などという言葉は使わないほうがいい・・・
【五嶋節の言葉】 子どもが全く興味を示さないものを押しつけても・・・
子どもがまったく興味を示さないものを押しつけても、やはりうあまくいかないと思います。
子どもの興味というのは、周囲の環境、つまるところ親のやっていることや、親の興味を持っていることによって醸成されるのでしょう。
五嶋節
1949年大阪生まれ。薬局を経営する母と空手師範の父のもと、五歳でヴァイオリンを始める。音楽学校に進学、オーケストラなどの音楽活動の後、見合い結婚。1971年、みどり誕生。1982年、母子でニューヨークに移住し、みどりは名教授ドロシー・ディレイ女史に師事、同年、デビューを飾る。再婚後の1988年に誕生した龍は七歳でデビュー、世界的に活躍する一方、ハーヴァード大学で学問も修める。
現在、日本で音楽を通して子どもたちの心を鍛える「音楽道場」を主宰。特定非営利活動法人ミュージック・シェアリング副理事長、非営利団体Midori&Friends(みどり教育財団ニューヨーク)理事も務める。
【桜井章一の言葉】 「足し算」をするときは、同時に「引き算」もやったほうがいい・・・
【松下幸之助の言葉】 あなたのこれからには、さまざまな困難があるにちがいない・・・
あなたのこれからには、さまざまな困難があるにちがいない。
しかし、どんなときでも志を失うことなく、私心にとらわれず、あなたの可能な限りの努力をしてほしい。
そして、つぎの事態を静かに待つ。期待どおりにいくこともあり、期待に背かれることもあるでしょう。それはあなたの力を超えたものの働きだと思います。
どのような力が働こうとあわてることはありません。
あなたはできるだけのことはした。
そうして待つとき、必ずつぎの新しい道が、しぜんとひらけるのではないでしょうか。
松下幸之助
1894年(明治27年)生まれ。9歳の時に大阪に奉公に出て苦闘する。1918年松下電器製作所を創設する。数々の特許・実用新案を開発するなど事業を拡大し、1925年松下電器産業株式会社に改組、社長に就任。かわたらPHP研究所を創設するなど、人間・社会への並々ならぬ関心を示している。
【フジ子・ヘミングの言葉】 捨てなければ、得られない喜びというのもあるわよ・・・
捨てなければ、得られない喜びというのもあるわよ。
フジ子・ヘミング
1932年(昭和7年)ベルリンで生まれる。父親がロシア系スウェーデン人(画家・建築家のヨスタ・ゲオルギー・ヘミング)で、母親が日本人(ピアニストの大月投網子)のハーフ。1969年、バーンスタインはじめ、ニキータ・マガロフ、シューラ・チェルカスキー、ブルーノ・マデルナらの推薦によって、ウィーンでのリサイタルが決定。しかし、リサイタル直前に風邪で聴力を失い、やむなくすべてのコンサートをキャンセル。 その後ストックホルムで耳の治療に専念する傍ら、音楽学校の教師の資格を得てピアノ教師をしながら演奏活動を行う。様々な困難を経ながらも、そのすべてを演奏に捧げる姿に多くの人々が魅了されている。